年頭所感
共同体に深い思いを寄せて生きよう
平成24年1月
拓殖大学 総長・学長 渡辺利夫
学生諸君、教職員諸兄、OB・OGの皆様方、新年明けましておめでとうございます。
昨年は東日本大震災により日本は翻弄されつづけました。しかし、東北の人々があの惨事にもかかわらず、気高く復興への歩みを進める姿を眺めて、日本人としての誇りを感じずにはおれませんでした。
民俗学者の宮本常一さんが昭和35年に著した『忘れられた日本人』(岩波文庫)が、最近、広く読まれているようです。青春時代に読んだ本ですが、昨秋、読み返し改めて深い感銘に誘われました。
対馬西北部の小集落に昔から伝承されてきた習俗のことが、この本の冒頭には綴られています。習俗とは、文化とか伝統といった表現で語ると抜け落ちてしまいそうな、人々のささやかで静かな生活の中に垣間みられるものです。村々の習俗のありようを紡ぎ上げ、読む者の眼に浮かび上がらせる叙述の力が宮本さんにはあります。共同体における人間関係の平等性、自治と規律、相互扶助、日本人の原郷としての小集落の深々とした人間模様が精細に書き込まれています。
宮本さんは昭和35年の時点で自身が描写した日本人はすでに「忘れられた」存在となってしまった、そうなってはまずい、そのように考えてこういうタイトルの本を書いたのだと思われます。しかし、日本が高度経済成長、都市化、列島改造の渦中に巻き込まれて社会の隅々までが変容を迫られたのは、本書が出版された直後からのことでした。
本書の出版年である昭和35年は「60年安保」の年、私が大学3年の時でしたから、日本の社会が一挙に変わっていった姿を私は目撃しています。太平洋ベルト地帯に向けて人口と労働力が唸りを上げるように押し寄せ、農漁山村が過疎化していったのです。忘れられたように秘やかに存在していた共同体も、その過程であらかたが消失してしまったのではないかと私は考えていたのです。
しかし、私は長らく忘れていた大切なものを東北の被災民の中に発見して深い感銘を覚えさせられました。小さな農漁山村に住まい心を通わせながら生きる、日本人の原郷としてのしなやかな共同体のありようです。血縁や地縁に連なる人々を一瞬のうちに消失させられ天の非情をうらみながら、なお生ける者が寄り添い乱れることなく復旧へと向かうその姿に、粛然たる思いを深めたのです。
家族を中心とした血縁共同体、それを取り巻く地縁共同体なくして人間は生をまっとうできません。現在の日本人はこのあまりにも当たり前ことを没却し、自由な個として生きることが何かよいことであるかのような幻想を抱かされてきたのでありましょう。幻想の帰結が、流砂のようにまとまりのない日本の空漠たる光景です。
共同体の原型である家族すらもが解体の危機に瀕しています。核家族など、はるかなる存在となってしまいかねません。夫婦と二人の子供から成る「標準世帯」の数は「単身世帯」の数よりすでに少なくなっています。これは個の自由な選択の帰結であり、受容さるべきものだと主張するジャーナリズムや研究者がいます。しかし、そんな主張は欺瞞です。家族がもつ人口再生産のメカニズムを毀損して、まともな社会が組成できるはずもないからです。
共同体を再生させねばなりません。共同体の消滅は進歩ではありません。「進歩に対する迷信」(宮本常一『民俗学の旅』講談社学術文庫)です。「解釈を拒絶して動じないもの」(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』新潮文庫)だけが意味ある存在なのです。家族を通じて継承される血脈、血脈を中心として同心円のように広がる地縁共同体、血縁・地縁という基礎的単位を幾層にも織り込んで形づくられる政治的共同体としての国家、国家のこの原像を発見しようという構えを現在の日本人がもたなければ、日本の将来は危ういのではないでしょうか。
拓殖大学に集う志高き諸兄よ! 日本の伝統に深く思いを寄せ、新しい時代に向け和して心を構えようではありませんか。本年が諸兄にとりまして、大いなる意味をもつ年でありますよう祈っています。