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『カナダ提携校(ランガラカレッジ)現地主事』ランメル幸さんが地元新聞に掲載されました

掲載日:2015年11月16日

『カナダ提携校(ランガラカレッジ)現地主事』ランメル幸さんが地元新聞に掲載されました

ランメル幸さん

本学では1991年からランメル幸さんに本学カナダ提携校の現地主事をお願いしています。
現地主事とは、本学の学生が海外留学する際、現地での研修生活や学習がスムーズに送れるように、本学が現地での指導・相談業務を委託するアドバイザーです。
現在までの25年間で、長期研修生356名、短期研修生64名の学生をサポートして頂いています。


新聞媒体:Vancouver Shinpo
掲載日 :2015年9月3日(木)
以下掲載記事内容


広島への原爆投下から70年

「Hiroshima:Memoirs of a Survivor」を出版したランメル幸さんインタビュー

広島に原子爆弾が投下されてから70年を迎えた8月6日、BC州スコーミッシュの公共図書館でランメル幸(さち)さんの著書「Hiroshima:Memoirs of a Survivor」の出版記念会が開催された。会場では着物姿の幸さんと夫のチャールズ・ランメルさんが息の合った朗読を披露し、約70人の聴衆を引きつけた。 8歳の時に広島で被爆した幸さんは、20代の頃に東京で出会ったチャールズさんと結婚し、1976年にカナダに移住。その後長い間、被爆経験を公に語ることはなかった。しかし70歳を過ぎてから、「自分の体験を若い世代に伝えたい」という思いが強くなったという。柔らかな笑顔と明るい声が印象的な幸さんに話を聞いた。


原爆が投下された日

1945年8月6日午前8時15分、広島に原爆が投下され、何万人もの命が一瞬にして消えた。核兵器が実践で使用されたのは、世界で初めてのことだった。 8歳だった幸さんは、爆心地から3.5キロ離れた学校の校庭にある大きな木の下で遊んでいた。もしもその時、木陰にいなければ、幸さんの人生は今とは違うものになっていただろう。 黒い雨が降る中、友達と手をつないで家路を急いだ。日が暮れても、広島の街を燃やす炎が空を赤く染めている。焼け出されて道を歩く人々は皮膚が剥がれて垂れ下がり、おばけのようだった。

「当時の私たちには原爆についての知識はありませんでしたから、何が起こったのかわかりませんでした。ピカっと光って、ドンと音がしたから、『ピカドン』と呼んでいました。たくさんの人が、今では想像もできないような苦しみの中で亡くなって、生き延びた人にとっても生き地獄でした」


大好きな父の死

幸さんの父・一雄さんは、爆心地に近い職場で被爆した。瓦礫の中から自力で這い出し、なんとか家まで帰り着いたが、体は放射能に犯されており、布団の中で苦しみ続けた。
そして玉音放送を聞いた翌日の8月16日、帰らぬ人となった。父の遺体は家の近くの高須公園に運ばれ、大勢の他の死者と共に火葬された。「お父ちゃんを焼いちゃだめ、焼かないでー!」と泣き叫ぶ幸さんを、母と祖母が涙を流しながら抱きかかえていた。

「父は亡くなった46歳の時の姿のまま、私の心の中にいます。私の方はもう白髪なのにね。父には本当にかわいがってもらいました。早く亡くなったけれど、それまでに一生分の愛をもらったと思います。今でも広島に里帰りすると、高須公園に行きます。子どもたちが元気に遊んでいて、原爆慰霊碑にはいつもきれいなお花が供えられていますよ」


人生を変えたチャックさんとの出会い

父の死後、幸さんは、母みさをさんと弟の雄太さんと力を合わせて生活を立て直した。山口県の高校を卒業し、やがて憧れの東京へ。充実した日々だったが、交際していた男性から被爆者であることを理由に結婚を断られるという辛い経験もした。その頃、英会話のグループの集まりで、ウエストバンクーバー出身の学生チャールズ(チャック)さんに出会う。チャックさんには、被爆者に対する偏見が全くなかった。

「主人はとても明るくて、おおらかな人なんですよね。『カナダのフーテンの寅』と呼ばれているくらい(笑)。私が被爆者であることも、受け入れてくれました。あれは本当に嬉しかったですね。彼はいつも何に対しても『大丈夫、大丈夫』と言うんです。私の友人も、『チャックさんの大丈夫の一言を聞いたら元気が出る』と言いますよ」

日本とカナダでの交際期間を経て、チャックさんと幸さんは1965年フジテレビの人気番組「ここに幸あれ」で結婚式を挙げた。媒酌人は徳川夢声と中村メイコ。日本中の視聴者の前で近いの言葉を交わした。幸さんには原爆の後遺症があり、医師から不妊症と診断されていたが、やがて娘二人を授かった。それはまさに「奇跡」だった。結婚してから50年たった今も、お互いへの思いやりを大切にする仲の良い夫婦だ。


被爆体験を本に

心に深い傷を残した被爆体験について書くことを決めたのは、娘と孫に原爆のことを伝えたいと思ったからだった。そして執筆中の2011年3月、東日本大震災による原発事故が起こり、「核の恐ろしさを伝えなければ」という思いが一層強くなった。校正を担当していた岩手県出身の作家・遠藤公男氏が津波で一時行方不明になるなど、さまざまな困難にくじけそうになりながらも、約三年間かけて「忘れないで ヒロシマ」を完成させた。その後、より多くの人に読んでほしいと願い、英語版「Hiroshima:Memoirs of a Survivor」も出版した。

「原爆に関して、さまざまな本が出版されています。でも作家やジャーナリストが英語で書いた本はあっても、被爆者が英語で書いた本はほとんどないんです。私は被爆者として、たとえ下手でもいいから本を書いて、自分が経験したことを広く伝えていかなければと思いました。不思議なことに、書き始めると、手伝ってくれる人が次から次へと現れるのです。私はクリスチャンですから、この世に偶然はないと思っています。神様のお導きにより、私は自分の被爆体験を人に伝えることができているのだと思います」


スコーミッシュでの出版記念会

8月6日にスコーミッシュ公共図書館で開かれた「Hiroshima:Memoirs of a Survivor」の出版記念会は、事前の予想を大きく上回る約70人の参加者で大盛況となった。幸さんは著書の中から、「地球が止まった日」や、戦災孤児の詩などを朗読。チャックさんが登場する場面は、夫婦で朗読した。

「私はこれまで知人や親戚にも被爆のことをあまり伝えていなかったので、『まさかあなたが被爆者だったなんて』と驚かれています。出版記念会にはとても良い反響を頂きました。これもたくさんの方が助けて下さったおかげです。被爆したあの日からちょうど70年という節目に、このような機会をいただいて、本当にありがたいことです」

若い世代へのメッセージ

現在も資源や宗教をめぐって、さまざまな国で戦争が起こっている。日本は過去70年間にわたり戦争はしていないが、その一方で原発事故が起きている。私たちは今も、核の脅威にさらされているのだ。

「科学技術の進歩は文明の発展を支えてきました。でもその裏で大きなひずみを生み出し、それが原発事故につながったのだと思います。 人間の力には限界があります。人が核を管理できると考えるのは、おごりではないでしょうか。これからの世界を変えていけるのは、若い世代の人たちです。もう二度と核兵器を用いた戦争や核エネルギーの事故が起こらないように、自分に何ができるかを考え、実行してほしいです。一人の力は弱いけれど、それぞれが少しでも平和のために行動を起こしたら、それが合わさって大きくなって、世界平和につながると思います」