創立100年記念出版

13年 4月『後藤新平-背骨のある国際人』 328頁

拓殖大学第三代学長後藤新平は、徹底した現地調査と世界最先端の技術を融合させて台湾の近代化を推進した。

16年 6月『新渡戸稲造-国際開発とその教育の先駆者』増改訂版 376頁

「如何にして台湾の同胞の為にどうして此台湾を切開いて、此富源を開発し、即ち此宝の蔵の鍵を以て三〇〇万の同胞を喜ばし、彼らを養ひ彼等の向上を謀ったらよいか」と語る本学第二代学監。

13年 2月『宮原民平-拓大風支那学の開祖』 686頁

(在庫なし)
第六代学監。「拓殖文化」を発刊。宮原は言う。「みずから支那人になってみること。支那人と共に生活すること。小説戯曲を読むこと。支那の小説を読めば、支那の社会と人と思想がわかる」と。

13年 9月『満川亀太郎-地域・地球事情の啓蒙者(上下巻)』(上)534頁(下)554頁

東洋事情、ロシア事情、植民政策などの講義を担当。地球に幾つも存在する多元的な世界の流れの中で、近代日本の在りようを複眼で重層に考察した地域研究の先駆者。

14年 3月『田中逸平-イスラーム日本の先駆』 452頁

(在庫なし)

15年 3月『田中逸平その2-中国論/日本ムスリムから見た支那文明』 618頁

15年 9月『田中逸平その3-日本論/日本ムスリムから見た神道』 524頁

16年 3月『田中逸平その4-随想』 422頁

17年 3月『田中逸平その5-随想・時論』 480頁

本学一期生。大正13年日本人として二番目にマッカ大巡礼を果たした類い希な思想家、行動の人。田中がイスラームに入信したのは中国の山東省濟南市にある清真寺(モスク)であった。その前に、行としての神道に参じ、さらに篤学の支那思想への長い沈潜がある。その先行事実が彼の思想形成にどのように関わっているかの全貌を収録した。

14年 3月『岡本精一-インドネシア・ムルデカ(独立)の源流』 336頁

大正12年から亡くなる昭和8年まで和蘭語を教授したインドネシア研究の先駆者。

14年 7月『台湾論/月刊・台湾協会会報(1898~1907年)から』  456頁

15年 2月『台湾論 その2』 384頁

15年 9月『台湾論 その3』 402頁

16年 3月『台湾論 その4』 480頁

16年12月『台湾論 その5』 528頁

日本の台湾領有と統治の創成期を、その前後の時代と比較するための一級の資料。現地主義に基づいた貴重な調査研究の歴史遺産を、客員教授黄文雄編集員が撰し集録。各巻の序文を記した台湾人知識人の所説が白眉。

14年10月『近現代日本・地域研究の源流-拓殖大学百年の学統<1>-』 438頁

(在庫なし)

15年12月『外国語・地域研究の系譜-拓殖大学百年の学統<2>-』 454頁

(在庫なし)

16年11月『地域研究の系譜-拓殖大学百年の学統<3>-』 364頁

拓殖大学の学統を形成してきた『外国語・地域研究』の軌跡を検証する。

15年 3月『満州開発論』 556頁

昭和初年代から昭和20年(1945)年の敗戦まで、満州は拓殖大学生にとって大きい雄飛の対象だった。在学生(一部は卒業生)による現場体験に根ざした地域研究や、調査を踏まえた膨大な開発論の一部を収録。

15年11月『安岡正篤-慎独の一燈行』 420頁

三代学長後藤新平の推挙で大正12年東洋協会に関係して後、更に同15年本学で「東洋民族心理研究」を担当してから東洋協会と拓殖大学関係の定期刊行物に寄稿した論文と随想の諸文を収録。

16年 2月『拓殖招魂社等資料集』 418頁

(在庫なし)

16年 3月『南米論』 488頁

拓殖大学出身者や関係者が中南米世界とどのように関わってきたのかの一端を編集した。

16年 3月『永雄策郎-近代日本の拓殖(海外雄飛)政策家』 508頁

日本における植民政策の創学者新渡戸稲造博士を先師とする永雄策郎元拓殖大学教授と官学における植民政策の権威となった矢内原忠雄元東京大学総長は、その植民政策論に決定的な違いがあるように思われる。両者は世界認識において、次元を異にしていたように読み取れる。

16年 7月『学統に関わる書誌1』 182頁

16年12月『拓殖大学寄宿舎・学寮・私塾等の回顧と資料』 454頁

(在庫なし)

17年 3月『永田秀次郎-自然体の伝道者』 312頁

昭和4年、後藤新平学長からその任を引き継いでから昭和18年9月戦病死するまで、14年の長きにわたって第四代学長として本学を指導した青嵐永田の論考や紀行その他を収録。

17年 3月『イスラーム世界と拓殖大学』 530頁

田中逸平がキリスト暦(いわゆる西暦)1924年マッカ巡礼を果たして以来の本学イスラーム研究の系譜を集成した。2002年12月に設立された拓殖大学イスラーム研究センターのメンバーの、知の集積と実践を通して後学へと発展させていくための抱負(座談会)も収録。

17年 10月『ロシアと拓殖大学』 564頁

本学とその経営母体であった東洋協会の機関誌に発表された論文から現在も学問的に価値の高い代表的な論考を選択して編集し、戦前期ロシア研究の系譜を明らかにする。そこに後藤新平学長のユーラシア大陸と太平洋を視野に入れた日露連携策に見られる経綸の基礎背景が明らかになる。ロシア科学アカデミー日本学者の協力もあって編纂された。

17年 10月『台湾と拓殖大学』 390頁

近代編、近代と現代の端境期並びに現代編の三部に分けて百年を通観できるように編集。執筆者や登場人物のほとんどが台湾出身者であるところから、日本が台湾人世界にどのように関わっていけばよいのかも学べるテキストとして最適。編者は黄文雄客員教授

17年11月『拓殖大学語劇祭資料集』 526頁

本書は、明治35(1902)年に開催された語学部大会を起源とし、連綿として現代まで継続上演されている本学学生によるイベント「語劇祭」を、プログラムを基本資料に台湾・東洋協会機関誌、本学出版物から記事を集成して構成したもの

23年3月 台湾・東洋協会研究『東洋文化協會五十年史稿』 534頁

本学の設立・経営母体であった台湾協会(後の東洋協会)、我が国最初期のNGO・シンクタンクであった。本書は、戦後に東洋文化協会と改称し、昭和22年7月に解散した協会50年の足跡を知る唯一の資料である。

24年3月 『荒井金造著作集 支那雑観』 500頁

荒井金造(一八八三~一九七一)は本学(当時・台湾協会専門学校)第三期生。山梨県出身。辛亥革命直後の中国各地に外交官として勤務。重慶、成都では動乱鎮圧に功を挙げた。かたや文人墨客と交わり、ことに漢詩において一境地を得た。詩作は生涯にわたり、「酔狂懺悔」他の漢詩集を残している。号を麥亭と称した。一九二五年、張家口領事を最後に外務省を辞して帰国。郷里で老父母に孝養を尽くす傍ら、請われて講演、執筆を業とした。一九三六年、本学幹事就任。幅広い人脈を活かし卒業生の海外雄飛に活躍の場を与えた。戦後は一時、山梨学院大学教授として外交史、国際法を教えた。 本書では、本学の経営母体であった東洋協会の機関誌『東洋』に連載した「支那雑観」等の評論、随筆を中心に収録した。いずれも二十数年にわたる中国での実体験を踏まえた珠玉の作品である。本書は、1部3,000円でおわけします(送料は、当方負担)。

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