拓殖大学百年史 昭和後編・平成編

「拓殖大学百年史 昭和後編・平成編」が刊行されました。

創立百年史編纂室ではこれまで百周年記念事業の一環として『拓殖大学百年史 資料編一~六』等を刊行してきました。これ等の資料を基に編集・刊行された通史は、平成22年刊行の『明治編』から『大正編』『昭和前編』と続き、この度、その完結編となる『昭和後編・平成編』を刊行する運びとなりました。昭和二十年の終戦から平成十二年までの現在に繋がる約半世紀の本学の足跡を綴ったものです。

大学史の意義についてその権威で当編纂室の顧問でもあります寺﨑昌男先生(立教学院本部調査役)は近著(Between2009秋号)のなかで「大学は商品ではない。精神的・学問的共同体であることを本質とする。その大学にとって、特性(アイデンティティー)や存在理由を確かめることは、肝要な作業である。そしてその成果は、教職員、学生、さらには校友も含めた関係者すべてに共有されなければならない。それは『外向け』の作業でない。内側を肥やすための大学改革の一環である」と述べています。

本書を購入ご希望の方は、2,800円(送料別途)にて販売しておりますので、拓殖大学購買会(文京キャンパス及び八王子国際キャンパス)までお問い合わせ下さい。

なお、明治編(1,200円)、大正編(1,500円)、昭和前編(2,500円)につきましても販売しておりますので、お問い合わせ下さい。 本学学生の方は図書館に問い合わせ下さい。

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拓殖大学百年史 昭和後編・平成編

『拓殖大学百年史 昭和後編・平成編』
A5 判 853ページ 3月27日発行
拓殖大学百年史編纂委員会

発刊のことば――「地の塩となれ」

第二次大戦での敗北は、日本という国家が過去に経験したことのない亡国的な悲劇であった。昭和二十(一九四五)年三月には東京大空襲により帝都が壊滅、八月には広島、次いで長崎に原子爆弾投下、ポツダム宣言受諾を経て、八月十五日には陛下の悲痛なる終戦の玉音放送に接し、国民は茫然自失であった。 終戦時に六歳であった私にも、あの日の記憶は切なくも鮮やかである。山梨県の甲府、当時人口八万人ほどの山国の小さな街が米軍の激しい空襲を受け、生き延びて母の里に辿り着いた。気が付けば、上半身に火傷をいくつも負っていた。火傷の痕は、寒い日には今でも疼(うず)いてあの日の恐怖を呼び起こす。八月十五日、母の里の広い庭に敷かれた蓆(むしろ)に人々は座し、玉音放送を聞く全員が両手をついて唸(うな)るように泣いていた。「亡国」、日本人の胸裏を去来したのはこの言葉、だったにちがいない。

しかし、圧倒的な権力者として君臨したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下にありながらも、日本人は早くも戦後復興を志し、経済力の回復と国際社会への復帰を求め、国の総力を挙げて全力疾走を開始した。昭和二十六(一九五一)年にはサンフランシスコ講和条約が締結され、翌昭和二十七年に主権を回復、日米同盟を締結することによって自由主義陣営に属し、西側世界に身を置いて次第にそのプレゼンスを拡大していった。驚嘆すべきは、昭和三十年代に入る頃から加速した高度経済成長であり、経済力を背景にGATT・IMF体制の主導国の一つへと変貌していったことである。

戦後の苦境にありながらも、アジア諸国に対する戦時賠償を支払い終え、これが一九九〇年代に日本を世界最大のODA(政府開発援助)大国たらしめる契機となった。

歴史は、ひたすらなる錯綜である。第二次大戦が「侵略」か「解放」か、はたまた「義戦」か「愚戦」か、永遠の論争課題であろう。いずれにせよ、この大戦が日本を亡国の淵に立たしめ、アジアの各国に癒し難い惨禍を及ぼしたことは、事実の問題としてこれを重く受け止めねばならない。しかし、少なくとも拓殖大学の戦後の指導者たちは、この事実を重く受け止めるとともに、一方で、校歌に謳(うた)われている「磽埆(こうかく)」の地・アジアに「やがて花咲かむ」と、未来の繁栄を願いながら戦争のため志を半ばにした卒業生たちの無念に思いを馳(は)せ、戦前期における「海外雄飛」の伝統を受け継いでアジアの「地の塩」たらんことを理念として掲げてきた。第十代総長矢部貞治氏が唱えた拓殖大学再興の理念がその象徴であり、この理念は拓大人の心を今なおゆすぶるものとして継承されている。

本書で論じられるインドネシア賠償留学生の受け入れ、南米移住事業の推進、アジア地域研究並びに地域言語教育の強化、国際開発学部の創設などが、その理念を具現した事例としてすぐにでも頭に浮かぶ。

本書は、第二次大戦後の拓殖大学拡充の足跡を記述し、学部・大学院・研究所における教育・研究のありよう、在学生のキャンパスライフ、卒業生の海外での活動などを精細に書き込むことによって、現代に息づく拓殖大学の伝統を、学内外に明晰なメッセージとして発信したいという意欲をもって編纂された。編纂にご協力頂いた方々は、実際、数え切れないほどである。そのご懇篤(こんとく)に深甚(しんじん)なる感謝を申し上げる。

平成二十五年三月吉日
総長・学長 渡辺利夫

あとがき

本学で長く言い伝え語り継がれてきた歴史を、創立百年を機に、風説・誇張の類を排除し、客観的な資料によって裏付け、確認・是正していくことが、本史編纂の意図である。戦前については、本史前三編(『明治編』『大正編」『昭和前編」)によって「正史」に近づけることができたと思う。

戦後の歴史は、昭和二十年八月十五日の終戦で体制・価値観が大転換し、惨憺(さんたん)たるものだったという認識であったが、そういう中で本学関係者は、時代の波に流されることなく、本学の価値観と使命を持ち続けた。それは卒業生の多くが個々に行ってきたことで、体系的なものではないが、本編(『昭和後編・平成編』)の編纂を通じて、その貴重さ、他の大学と違う本学独自の特徴を確認できた。入江湊(第五期生)が昭和二十七年九月の校名復旧を祝して寄せた一文がすべてを物語っている。本文でも二箇所、引用しているが、改めて深く味わってみたい。

本編の記述を読み、また私自身の学生時代を振り返ってみても、戦後の学生たちは、よく苦難を厭(いと)わず海外雄飛を志し、社会奉仕活動(ボランティア)に参加してきた。自治自立のための活動は、諸大学に負けず劣らず活発であった。しかも思想的に極端に進むことなく、戦前と同様、本学の良心は、厳然と存続していた。

戦前最後の内閣総理大臣として戦争終結に尽力した海軍大将・鈴木貫太郎は、次代を担う若者に「正直に 腹を立てずに 撓(たわ)まず励め」と訓示した。この言葉は今でも、鈴木の出身校である前橋市立桃井小学校(旧第一番小学校厩橋学校)の基本目標に掲げられている。本学卒業生は、時に腹を立てて悲憤(ひふん)慷慨(こうがい)してしまうが、その生き方には共通するところがある。

戦前の本学には、私立学校とはいえ、台湾・東洋協会のバックアップがあった。それが戦後、放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のように放り出され、廃校さえ取り沙汰された。そして占領下という厳しい状況にあっても伝統を見失わず、毅然と新たな方向性を示した学者総長・高垣寅次郎のもと、かろうじて戦前の矜持を保ちながら再出発を果たした。しかし経営という意味では立ち遅れた。本学関係者の母校に対する思い入れの強さが災いしたものと諒すべき点もあるが、賽(さい)の河原に小石を積んでは崩すような不条理と不合理が繰り返されてきたように思う。ようやく昭和三、四十年代の矢部貞治から中曾根康弘へと続く一五年間で、本学の復興はダイナミックに推進された。しかし昭和四十年代から学生による不祥事が相次ぎ、その度に低迷し、発展のための体力を削がれた。昭和五十年代半ばから一二年間の高瀬侍郎体制の安定を基礎に、百周年を経て、次の百年に向けての方向性がようやく定まったように思う。それが百周年事業の意味するところでもある。戦後の半世紀は、編集代表の渡辺利夫総長・学長が言うように、まだ歴史ではない。その評価は次の百年で定まる。

戦後わが国がGHQ占領時代を経て、サンフランシスコ講和条約により独立国家として再スタートしてから六一年、近隣アジア諸国の興隆台頭いよいよめざましく、わが国の主権と安全、アジア諸国との関わりかたなど、戦後日本の真価が問われている今日である。

本史が本学に学ぶ次世代の諸君へ光と希望を与えられれば、それ以上の幸福はない。

平成二十五年三月
拓殖大学理事長
百年史編纂委員会委員長

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